親から独立し、都会でオタク暮らしを始める(過去004)

 

人生初の普通の暮らし

 

本への帰国後、僕は初めて一人で家に住んだ。生きるとはどういうことか知らなかったので、ただひたすらテレビを見たりゲームをして過ごした。

 

帰国後二ヶ月ほどした頃に、母も大阪へ帰ってきた。僕たちはあまり話すこともせず、その後も僕はただひたすらテレビを見てゲームをしていた。そんな生活をさらに2ヶ月ほど続けていると、さすがに姉が心配し僕に何かしろとのアドバイス。

その時の僕の望みは母から独立して自由になることだったので、何か仕事をしてお金を貯めることにした。

原付き免許を取り、ピザ屋で配達の仕事をすることに。そこは何年か前に姉が働いていたので、なんとなく安心できたのと、バイクで配達すれば、人と話さなくていいので内気な自分に向いていると思ったのだ。

 

結局そこで8ヶ月の間、働くことになった。働いてみると自分に向いていたのかして、どんどん調子良くなっていき、最終的には開店準備や材料の仕込み、ピザ作成、電話受付配達とまるで店長代理かというぐらいにしっかりと働いた。

まともに同年代の友だちができ、女の子とも話せるようになり、バイト先の友人たちと時間を過ごし、夜中の仕事終わりに深夜営業のラーメン屋へ行き、数時間の無駄話。とても単純で普通の事なんだけど、もしあのままエホバの証人を続けていれば経験できなかったことでもある。

 

それは僕にとって唯一の一般社会的な生活をした唯一の期間になった。それはいくら願ってもかなわない子供時代の強烈な願望だったのだ。

 

映画、音楽、文化漬けの日々

 

ヶ月かが過ぎ、18歳の誕生日が来た。それは次の段階へ進むサインだった。

 

ちょうどその時姉が日本に一時帰国していて、一緒に部屋を借りるのを手伝ってくれた。ティーンエージャーらしく、大阪の中心部、都会の生活に憧れていた。

 

仕事には前から目星をつけていて、都心にある西日本で最大のレンタルビデオ屋にいくつもりだった。募集も何もなかったんだけど、突然押しかけていってバイトに取ってもらった。当時の僕は年齢的に高校生だったので普通なら雇ってもらえないのだが、高校に行っていないことと18歳を超えているということで雇ってもらえた。

当事の僕はテレビや映画の仕事に着きたいと思っていたので、沢山の映画を見ることはその第一歩だと思ったのだ。

 

100人以上のアルバイトがいて、殆どが文化好きの若者、特に芸大生や劇団員など芸術に関わる人が多く、色んな影響を受けた。

僕の十代の頃の価値観はこのビデオ屋のバイト仲間と映画、漫画、小説などの文化からの影響で成り立っていた。

 

この時期は僕の人生の中でも非常に心地の良い時期だった。基本的には一日中映画を見て過ごした。平均して一日に2,3本の映画を1年半続けて見続けた。最終的にはあの時期だけで、2000本以上の映画を見ることになった。自分自身の芸術的センスを磨くための良い投資だったと思う。

 

今になって思うと、一日3本も映画を見るのはちょっとやり過ぎかなとも思う。いい映画ってのは見終わった後にそれを消化する時間が必要。でも、当事の僕は好奇心に溢れていたので全てのエネルギーを興味のある文化的な事に費やしていた。

 

兄との友情

その当時は兄の家をたまに訪れていた。その時は友達というよりも兄弟として付き合っていた。

ある時、兄の家の壁に濱田魚武氏の詩がかかっているのを発見。それは僕と兄の一番好きな詩人だったのだ。

僕も兄もびっくり、なんせ濱田氏はあまり知られてはいなく、僕も兄もお互い以外に濱田氏を知っている人に出会ったことはなかったのだ。

僕が4歳の時から兄とは離れ離れで育ち、会うのは何ヶ月かに一度だけ。でも僕達には同じ血が流れていて、濱田氏の詩をかっこいいと思ったのだ。

その日以来、僕たちはお互いにとっての親友になった。趣味の好みがぴったりで、しかも血の繋がった兄弟。

 

僕が大阪市内で一人暮らしを始めてすぐに、兄がベーシストとして参加していた実験的なロックバンドが解散した。

兄は一緒に音楽ユニットを結成しようと誘ってきた。もちろんすぐに了解し、僕たちは週に一度会って、一緒に音楽を作るようになった。

僕たちは、自分たちのセンスに自身があって、自分たちにしか出来ないオリジナルな音楽が作れると思っていたので、妥協は一切せずに、お金を稼ごうとか売れようとかは考えずにひたすら自分たちの創作に没入した。

結果として出来上がったのは反著作権主義のテープコラージュユニットで、著作権で保護されている音源のみをそのままそれと聴いて分かる形でつなぎ合わせ全く別の音楽を作るという実験的なものだった。

そこに僕達の好きなテクノとブラックミュージックとお笑いを併せたなんともへんてこな音楽を作って自己満足に浸っていた。

出来たものを幾つかのレコード会社に送ってみたが、当たり前だが著作権を侵害していることを理由に断られた。

その後僕が海外で暮らすようになって、活動が停止し、20年近くお蔵入りになっていたのだが、最近やっとサウンドクラウドのウェブサイトを通して発表する機会を得た。

興味のある方は聴いてみて下さい。

 

タイへの小旅行

僕が働いていたレンタルビデオ屋は大きくて品揃えが豊富なことで有名で、色んなアーティストが働きに来ていた。当時の僕達の間では数週間、東南アジアにバックパック旅行することが流行っていた。

僕は彼らに影響を受けて、バイトの友達と一緒に3週間のタイ旅行に行くことにした。それは3月の始めのことで、僕の高校の同級生はまだ学校で勉強している時期。僕は密かに優越感を感じていた。

 

たちはバスとフェリーに乗って、コパンガンというヒッピーとレイヴパーティーで有名な南の島へ向かった。

その途上で過去にもコパンガンに行ったことのあるという日本人男性に出会った。彼が僕達を行きつけの安バンガローゲストハウスに連れて行ってくれ、ついでに大麻も紹介してくれた。僕は生まれて初めて大麻を吸った。それまではタバコも何も口にしたことはなかったので吸い方がわからず、大して何も感じなかった。

 

そのゲストハウスでは、他にも過去にコパンガンに来たことのあるという日本人男性がいた。彼はその後、インドへ6ヶ月の旅行に行く予定だった。僕は彼がしようとしていることに非常に衝撃を受けた。インドへ行くだけでも大冒険なのに、6ヶ月もの長期間! それは、僕の知っている現実世界とはあまりにもかけ離れていた。僕もいつか彼と同じことをしよう、世界を見てみよう!

 

その数日後、ビーチでフルムーンパーティーが開催されるとの情報を得た。僕達みんなパーティーに行くことにすごく興奮した。僕はサイケデリックドラッグにすごく興味があったが、当時1997年の日本では幻覚剤を手に入れることは難しく、殆どの人は存在すら知らなかった。

 

僕達みんなで少しずつ大麻ケーキを食べて、乗り合いタクシーに乗ってパーティーに向かった。向かっている途中に段々とキマってきたが、なんだか様子がおかしい。

目がグルングルン回りだし、気分が悪くなってきた。明らかにピュアでひ弱な僕には過剰摂取。途中でタクシーを降りてゲーゲー吐くことに。

 

友達には後で追いかけるから待たなくていいよと伝え、先に行ってもらうことに。一人で道路脇に残ったものの、まだトンでいてどうして良いかもわからない状態。幸運にもパニックにはならず、周囲を散策してみた。暫く歩くとそこに一軒のバンガローが。ドアをノックして助けを乞うものの、英語が全く話せないので、当然のごとく怖がられてドアを閉められた。

 

しばらくするとだんだん大丈夫になってきて、乗り合いタクシーに乗って帰ろうとする。住所を覚えて無いのでゲストハウスの名前をタクシードライバーに伝えるものの、迷って島中をウロウロしたが、最終的には無事に帰り着いた。18歳で初海外旅行の英語を話せない僕にとってはかなりの大冒険だった。

 

南の島を旅行した後、僕たちは別行動をして、旅の終わりに再開することに。僕は北の方へ向かい、山にトレッキングに行った。象に乗って山岳民族を訪問したりとなかなか楽しい日々だった。

 

トレッキングから街に帰って来た時に、コパンガンから持ってきていたエクスタシーの錠剤を摂取した。フルムーンパーティーで摂取したかったんだけど、残念ながら行けなかったので。

 

エクスタシーとはうつ病のために開発された薬で、気持ちを楽しくさせる薬。少量では害はないのだが、その楽しさ故に大量摂取する人が出始め規制されるようになった。

エクスタシーを摂取した僕は楽しいと感じるということに凄くショックだった。

多分育ちの影響もあると思うんだけど、僕は何故か人生とは苦しむものだと思いこんでいた。楽しむなんてバカみたい、ダサい。

でも、このうつ病の薬が、僕を強制的に楽しくさせ、理由なく楽しくても別に良いんだと言うことを理解させてくれた。

 

このエクスタシーの経験とタイ旅行全般は僕の人生観を変えた。もう少しゆっくり楽しんで生きようと思うようになった。

 

 

ゆとりのある生き方

 

本への帰国後、兄の元バンドメンバーからの紹介で、僕の働いている大きなビデオ屋のせいで潰れかけているビデオ屋で働くことにした。それぞれの店舗から1キロほどの距離だ。

この小さなビデオ屋は非常に少ないお客さんしか来なくて、ほとんど稼ぎがなかった。社長は使っていない土地が余っているので、ただ従業員を食べさす為だけに店を続けていた。お陰で僕は大量の自由時間を手に入れた。沢山の本を読む機会。

 

僕は大量のCDを大きなビデオ屋から無断で借りて、(巨大なCDレンタルのコレクションでも有名)さらにその店から大量の空のミニディスクを盗んだ。それを小さなビデオ屋で働いている空き時間に、大量にコピーしていくという日々。

この時期にありとあらゆる音楽を積極的に貪欲に聞きまくった。十代にしてあれだけの音楽を幅広く聴くことが出来たのは、その後の僕の人生にとって非常に大きな糧になった。

 

大量の良質な音楽と映画と本と漫画。今振り返ってみると、この頃に吸収した文化が僕の人生に与えた好影響は計り知れない。

 

それは簡単で楽しい日々だった。そんな生活を一年半の間続け、しばらくすると20歳の誕生日が近づいてきた。それは僕にとって次のステップに進むサインだった。

 

次は、十代の内にデカイことをしたいと思い、中国の混沌とインドのゴアでLSDを経験することを目的に旅に出る話です。

一方通行、戻ることのない長い長い旅路の始まり(過去005)

 

Cryptraveler
ストイックなエホバの証人の母子家庭に生まれ、いじめられっ子として少年時代を過ごすことを魂の段階で選択する。 十代の時に全てに嫌気が差し宗教、学校、日本社会からドロップ・アウトし完全なノマドとして世界中を放浪し続ける。 何度かの強烈な覚醒体験を経験し、”それ”を自身の存在を通して表現する。 現在は意識の覚醒とハンドパンと暗号通貨を駆使して三次元の地球を遊びまくっている。

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